ブラインドアスリート佐藤誠喜

20代半、突然発症した原因不明の病気によって、私は光を失い盲目となりました。 今は槍投げのアスリートとして、2020年東京パラリンピックに向けて頑張っています!!

18年間の思い

こんばんは。

ずっと思い続けてた夢というか希望・願い、なんて言い表したらいいのかわからない
ですが、やっと一つ叶いました。


僕には一人、息子がいます。

その息子と二人でご飯を食べることができました。

思い起こせば、18年ぶりの夕食だったでしょうかねー。


自分の視力がどんどん低下してきた頃、それと共にいろいろなものも失われていきま
した。

書類の文字が見づらくなり、仕事もできなくなり、周りからの信頼もどんどん薄らぎ
、周囲の憐みや怒りを感じながらもどうしたらいいかわからず、苦悩な日々を過ごし
ていました。

そんな状況でも自分の目の状態・置かれている立場を妻へも話すことができず、結果
家族も失うことになってしまいました。

いろいろな状況を考え、息子の将来を妻に託し、涙を呑んで別れました。

視力を失うことより、息子との別れが一番辛かったのです。

そんな気持ちを引きずったまま盲学校へ入学。勿論、一学期は赤点だらけでしたね。

「死にたい」と何度思ったことでしょう。

中途で障碍をもった人はそういう思いを抱いた人は少なくないと思います。

そんな気持ちを思い止まらせたのは、息子の存在。それに親兄弟・自分を支えてくれ
た友人の存在がありました。


盲学校在学中に障碍者宮城国体があり、陸上選手として出場しました。

地元開催。凄いメディアの取り上げられ方。自分も活躍すれば取り上げられる。

「だったら、息子の目に耳に僕の存在が一方的ではあるけれども届くのでは?」とい
う考えが湧き上がってきたのです。

しかし、この大会での記録は60m音響走で3位。メディアに取り上げられることはあ
りませんでした。

翌年、高知国体でリベンジ。1位。

「地元に戻ったら取材が待っている」と浮かれて帰ってきました。

残念ながらどこからも無し。地元誌に名前と順位が載ったのみ。

宮城国体は地元開催、だから大々的にメディアに取り上げられてましたが、過ぎてし
まえば世間の関心は無くなっていました。

「どうしたらメディアに取り上げられる?」と考えた結果、もっとレベルの高いとこ
ろでの競技。

そう、日の丸を付け世界大会へ、そしてパラリンピックへ出場すれば…。

そんな思いから陸上にのめり込んでいきました。

自分から会いに行けないのなら、息子が会いに来るのを待つのみ。

もし会いに来てくれた時に、「僕は目が見えなくて何もできない」と不貞腐れ酒浸り
な姿を見せるより、自分が好きなことをして胸を張って生きている親父でいた方が息
子は嬉しいのでは…。

いつ会いに来てくれるかわかりませんでしたが、その一心で陸上を続けてきました。

少々の雨や雪でも練習してきました。-12℃の時も強風の時も。

伴走やパートナーには大分迷惑かけましたね。

自分の練習での辛さや体力的な疲れは終われば・寝れば回復します。

しかし、息子にさせた寂しさ・辛さに比べれば…。こんなこと…。

そんな思いでずっと頑張ってきましたが、未だパラへは出場できていません。


引退も頭を過ったことも何度かありましたが、パラへの思い、息子への気持ちは断ち
切ることはできませんでした。


そして3年前息子からの連絡。

15年半ぶりに再会。

僕の自宅で会いましたが、涙が出る程嬉しかったです。

ところが、「顔も薄らとしか覚えていない」と言われ、僕は倒れるかと思いましたよ

まー、別れたのが5歳。無理もないかもしれませんね…。

その後、何度か連絡を取り合いましたが、会ってはいませんでした。最初に飯に誘っ
た時は断られました。

最初に誘ってから2年以上になりますかねー。再度誘ってみました。

そして今週の日曜に実現。仙台パルコのイタリアンで食事しました。

正直、ドキドキでしたよ。平静を装っていましたけどね。

これまで直接親子の会話はなかったのですから、何を話したらいいのやら…。

最後に息子からの質問。

「お父さんは、なんでそこまで陸上できるの?」

躊躇いました。正直に答えていいものか…。本人が目の前にいるのですから。

「君がいたから…」とさっき書いたことを掻い摘んで話しました。

少し無言の後、「胸を張っている親父の方が…」と少し照れ臭そうに聞こえたのは僕
の勘違いかな。

でもその一言、嬉しかった。


やっと思いが叶いました。

僕は欲張りかもしれません。いっぱい夢や願がまだまだあるのです。

次なる目標に向かい、これからもがんばっていきます。