ブラインドアスリート佐藤誠喜

20代半、突然発症した原因不明の病気によって、私は光を失い盲目となりました。今 は砲丸投げのアスリートとして、2024年に開催されるパリパラリンピック出場を目標 に頑張っています!!

考えに耽ってしまいます…

おはようございます。

あれから6年。

今日は、あの東日本大震災が起きた日ですね。


当時、地元の老人ホームに務めていましたが、利用者の機能訓練がその日に限って少
し早めに終わりました。

「少し早いけど、コーヒーでも飲むべがねー」等と独り言を言いながら、自分のデス
クを立ち上がろうとした瞬間揺れ。

「おー、地震」と思いましたが、すぐおさまるだろうと思っていたらおさまるどころ
かどんどん揺れが強くなり、いつ終わるんだと思うくらい長く強い揺れでした。

流石に「ヤバイ」と思い、訓練以外で初めてデスクの下に潜り込み、椅子の背もたれ
を自分の方に向け、もし天窓が落下し、ガラスが飛び散ったとしても自分に破片が最
小限になるようにしました。

立ってられないくらいの揺れ。

潜っていた僕は、机の上から飛んで行った自分のノートパソコンの落下音・キャスタ
ー付きの脇卓が走る音、キャビネットの倒れる音、書類棚から書類が落ちる音や災害
機器の警報音がけたたましく鳴っていましたが何もすることができませんでした。

揺れがおさまり、異様な静けさだけが一瞬訪れ、すぐざわめきが施設を包みました。

幸い利用者・職員にけがもなく大事に至りませんでしたが、あらゆる設備が破損や故
障しライフラインも完全にストップしてしまいました。

僕のデスクの上野天窓は落下することなく、パソコンも画面を閉じた状態で柔らかい
ケースに入れていた為に故障することはありませんでした。

今でも少しでも長い揺れがくると、あの日の揺れを思い出し、「また来るか」とドキ
ドキしてしまいます。


実家の兄が、夕方職場に迎えに来てくれ、そのまま自宅に帰ると、うちを囲んでいた
ブロック塀がほとんど倒壊していました。

幸い数年前に道路に面していた塀はフェンスに替えていたので、倒れることはありま
せんでした。

南以外の塀は全滅です。

道路には面してない所だったので、幸い誰もけがすることもなく安心しました。

200lの灯油タンクやガスボンベ2台も倒れていました。

ガスボンベは、壁にチェーンで固定されていたのですが、壁の根元からチェーンが抜
けていました。

それ程揺れが大きかったんですね。

玄関ドアは歪んでいましたが、なんとか開け閉めはできました。

背の高い下駄箱が倒れ、まずは玄関から中に入ることが大変。

各部屋を確認したところ、一部壁が倒壊した所も有り、壁のあちこちには亀裂。

各部屋のぶら下がっていた照明器具は床に落下し、蛍光灯のガラスが飛び散っていま
した。

後で確認してもらったら、ぶら下がりの照明器具が何度も天井にぶつかった跡が残っ
ていたようです。

2階の本棚は見事倒れていましたが、1階の食器棚は倒れていませんでした。

配置や向きの違いだと思います。


自宅から、水や食料・食材を全部持ち、実家へ避難しましたが、大きな余震が続いて
いたので、とても家の中では過ごせず、実家敷地内のプレハブの倉庫で実家化家族6
人と数日過ごすことになりました。

ラジオやワンセグTVで、夕方津波の情報を知り、一瞬どこの国の出来事化と思った
のを覚えています。

津波に巻き込まれたと思われる僕の知り合いも、未だに見つかっておりません。

2度とこのような災害には会いたくはありませんが、いつまた災害がくるかわかりま
せん。


あれから6年が経ち、少しずつ復興は進んできましたが、まだまだこれからです。

世間では、6年前の今日として報道されることでしょうが、被災地は6年前の出来事で
はありません。

ずっと続いているのです。

僕は何もできませんでした。

今もできていません。

それが歯がゆいのです。

せめて

震災により亡くなられた皆様のご冥福をお祈りします。